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サラエボへ [旅]

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナへ行ってきました。
首都のサラエボです。

市内はまだ銃弾の残った建物も多いし、地雷も完全撤去されているわけでないというけれど、思った以上の治安のよさ! 人のあったかさ! 心遣いの優しさ!
山に囲まれた景色の美しさ!

旧市街のオリエンタルな雰囲気と美味しいコーヒーにすっかりノックアウトされて、
「バルカンいいぞ~」
と、マケドニアやアルバニア行きの航空券の金額チェックなんかしておりました。

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一時の浮かれ気分も少しずつ落ち着き、その中であらためて思うのは、
「あんなあったかい人たちときれいな街が、つい最近まで内戦の中にいた」
ということでした。

サラエボの地形の特徴は、行ってみて感じることでした。
急斜面の山が迫っていて、囲まれて閉ざされた地形。細い平野。
同僚とも話したのですが、あんなところで囲まれたら狙い撃ちにされるしかないような場所。

物見遊山で行ってはいけないと思いつつ、それでもやはり思い切って足を踏み入れた場所がいくつかあります。
まず、戦時中でも営業を続けていて報道の最前線になったというホリデイ・イン。
そのホリデイ・インの前に広がる、動く者はみな狙い撃ちにされたという「スナイパー通り」。

foto 045.jpg ホリデイ・イン
foto 053.jpg 壁に残る弾丸の痕
foto 062.jpg 紛争中に攻撃を受けた国立図書館
foto 077.jpg 「永遠の灯」

そして、ずいぶん悩んだ末に行ってみたのが、1984年に行われたサラエボ冬季オリンピックの施設跡地。
そのグラウンドは、今はもう一面の墓地になっています。
果てしなく続くイスラム教徒の墓地、その隣の区画には、こちらも果てしなく続くキリル文字が書かれたキリスト教徒の墓地。
ちょうどお墓参りに来ている家族連れもいましたが、ここでは、さすがに写真を撮る気にはなれませんでした。

サラエボ・オリンピック当時、「モスクワやロサンゼルスなどオリンピックは政治の影響を受けてきているけど、ユーゴスラビアは複数の民族や言語や宗教が共存する国。そこでオリンピックが開かれるのは本当に意義深いことだ」と、聞いたのを覚えています。多分、学校で聞いたのではないかと思います。

確かに私が泊まったホテルでも、朝には教会の鐘が鳴り、夕べにはコーランが聞こえ、旧市街を歩けばユダヤ教会のほんの先にはカトリックの大聖堂、それからセルビア正教会、そしてたくさんのイスラム教のモスクとヴェールをかぶった女の人たち。
いろいろな文化と民族が出会った場所が、まさかあれから10年もたたないうちに内戦の場になってしまうとは想像もしませんでした。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは犠牲者が20万人、難民・避難民が200万人出たのだそうです。
とても英語が達者な若者がいたのですが、彼の言葉は「戦争の時逃げ出してカナダで育ったから・・・」というもの。彼も難民だったのですね。
20万人って、広島の原爆犠牲者と同じ数・・・ ←広島人

昔々、ウィーンの語学研修で一緒だった女の子は、「私はユーゴスラビアから来たの」と言ってましたが、彼女がクロアチア人なのかセルビア人なのか、ムスリムなのかは聞くこともありませんでした。
あの当時、西側に行けるような子だったから、首都で育ったセルビア人だったのか、豊かなスロヴェニアの出身だったのか。

第一次世界大戦が勃発した場所。
そして、つい最近まで内戦が行われていた場所。

バルカンにとってはガイジンである私たちが軽々しく踏み込んではいけないとは思うけれど、やはり考えさせられる場所でした。

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第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」の現場
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